mistica
第一章
気づくことが優しさなのか。
手を差し伸べることが優しさなのか。
俺はまだ、分からないままでいる。
***
最近、昔のことを思い出す。
理由は分かっていた。
今も認めたくないだけだ。
――四つ年上の先輩だった。
初めて会ったのはライブハウス。
俺が高校生の頃で、先輩は大学生だった。
ギターが上手くて、顔も広くて、誰とでも仲良くなれる人だった。
ライブが終わればオトハ、と笑って話しかけてくれるし、機材のことを聞けば何でも教えてくれた。
俺にとっては少しだけ遠い人だった。
同じステージに立っていても、見えている景色が違う気がしていた。
だからだろうか。
俺はその人を慕っていた。
恋愛感情ではなかったと思う。
ただ、一緒にいるのが楽しかった。
***
先輩は、同じバンドのメンバーに恋人がいた。
ライブ中に目が合えば笑うし、打ち上げでは自然と隣に座る。
当たり前みたいに同じ時間を過ごしていた。
仲の良い二人だった。
少なくとも、俺にはそう見えていた。
しばらくして、別れたらしい、と聞いたのは人づてだった。
詳しい理由は知らない。
聞かなかったし、向こうも話さなかった。
ただ、少しずつ変わっていった。
ライブに来なくなった。
連絡が返ってこなくなった。
会っても笑わなくなった。
最初は忙しいんだと思っていた。
でも違った。
今思えば、あの頃にはもう気付いていたんだと思う。
この人は壊れ始めているのだと。
***
ある日の夜だった。
珍しく先輩から連絡が来た。
『今から会えないか』
短い一文だった。
断る理由はなかった。
駅前の公園へ向かうと、先輩はベンチに座っていた。
酒の匂いがした。
顔色も悪かった。
いつもの先輩じゃない、そう思った。
だけど、どう声をかければいいのか分からなかった。
しばらく二人で黙っていた。
やがて先輩は空を見上げたまま、小さく笑った。
「情けねえな」
その声だけが妙に耳に残っている。
俺は何も言えなかった。
何か言わなければいけない気がしたのに。
「なあ、オトハ」
しばらくして、先輩が言った。
「お願いだから、一人にしないでくれ」
その言葉だけは、今でも覚えている。
***
その後のことは曖昧だ。
先輩の部屋へ行ったこと。
朝まで一緒にいたこと。
なし崩しに抱かれたこと。
そして、それを拒まなかったこと。
細かいことは思い出せない。
ただ、助けたかった。
本当にそう思った。
この人が少しでも楽になるなら、それでいいと思った。
だから受け入れた。
少なくとも、その時の俺はそう信じていた。
その後、関係が変わるのに時間はかからなかった。
前みたいに機材の話をすることはなくなった。
ライブ終わりに飯へ行くこともなくなった。
その代わり、夜になると連絡が来るようになった。
『今日空いてる?』
最初は気にしていなかった。
自分で選んだことだったから。
文句を言う資格なんてないと思っていた。
それでも時々考えた。
俺が欲しかったのは、本当にこれだったんだろうかと。
ギターを教えてくれる先輩が好きだった。
何でもない話をして笑う時間が好きだった。
助けたかったのも本当だった。
だけど気付けば、その全部がなくなっていた。
結局、先輩がどうなったのか俺は知らない。
ただ、俺たちの関係は元には戻れなかった。
俺に分かるのはこれだけだ。
あの時、手を差し伸べたことが正しかったのかは今でも分からない。
気付いていたのに何もしない方が良かったのか。
それも分からない。
答えはずっと出ないままだ。
***
不意に視線を上げる。
リビングのソファで、マコトが寝転がりながらスマホをいじっていた。
俺に気付くと、小さく手を振る。
何でもない仕草だった。
それなのに胸の奥がざわつく。
最近こういうことが増えた。
ライブが終わる。
目が合う。
部屋へ戻る。
当たり前みたいに隣にいる。
最初はライブの熱だと、せいぜい一時的なものだと思っていた。
だけど、もう違う。
マコトと同じ夜を過ごす日が増えた。
それが少しずつ日常にも侵食していることも、薄々気づいていた。
最初はライブハウスだけだった。
ライブが終わった後の、高揚感の延長線。
そう思っていた。
だけど気付けば違った。
俺の部屋で。
マコトの部屋で。
リビングで。
キッチンで。
気付けば場所なんて関係なくなっていた。
少しずつ、本当に少しずつ。
日常とそうじゃないものの境界線が溶けていく。
それでも俺は止めなかった。
止められなかった。
このままではいけない。
そんなことは、ずっと前から分かっていた。