mistica

第一章

5話 – 残響

2026.06.27

気づくことが優しさなのか。
手を差し伸べることが優しさなのか。

俺はまだ、分からないままでいる。

***

最近、昔のことを思い出す。
理由は分かっていた。
今も認めたくないだけだ。

――四つ年上の先輩だった。

初めて会ったのはライブハウス。
俺が高校生の頃で、先輩は大学生だった。

ギターが上手くて、顔も広くて、誰とでも仲良くなれる人だった。
ライブが終わればオトハ、と笑って話しかけてくれるし、機材のことを聞けば何でも教えてくれた。

俺にとっては少しだけ遠い人だった。
同じステージに立っていても、見えている景色が違う気がしていた。

だからだろうか。
俺はその人を慕っていた。

恋愛感情ではなかったと思う。
ただ、一緒にいるのが楽しかった。

***

先輩は、同じバンドのメンバーに恋人がいた。

ライブ中に目が合えば笑うし、打ち上げでは自然と隣に座る。
当たり前みたいに同じ時間を過ごしていた。

仲の良い二人だった。
少なくとも、俺にはそう見えていた。

しばらくして、別れたらしい、と聞いたのは人づてだった。

詳しい理由は知らない。
聞かなかったし、向こうも話さなかった。
ただ、少しずつ変わっていった。

ライブに来なくなった。

連絡が返ってこなくなった。

会っても笑わなくなった。

最初は忙しいんだと思っていた。
でも違った。
今思えば、あの頃にはもう気付いていたんだと思う。

この人は壊れ始めているのだと。

***

ある日の夜だった。
珍しく先輩から連絡が来た。

『今から会えないか』

短い一文だった。

断る理由はなかった。
駅前の公園へ向かうと、先輩はベンチに座っていた。

酒の匂いがした。
顔色も悪かった。
いつもの先輩じゃない、そう思った。

だけど、どう声をかければいいのか分からなかった。

しばらく二人で黙っていた。
やがて先輩は空を見上げたまま、小さく笑った。

「情けねえな」

その声だけが妙に耳に残っている。
俺は何も言えなかった。

何か言わなければいけない気がしたのに。

「なあ、オトハ」

しばらくして、先輩が言った。

「お願いだから、一人にしないでくれ」

その言葉だけは、今でも覚えている。

***

その後のことは曖昧だ。

先輩の部屋へ行ったこと。
朝まで一緒にいたこと。
なし崩しに抱かれたこと。

そして、それを拒まなかったこと。

細かいことは思い出せない。
ただ、助けたかった。
本当にそう思った。
この人が少しでも楽になるなら、それでいいと思った。

だから受け入れた。
少なくとも、その時の俺はそう信じていた。

その後、関係が変わるのに時間はかからなかった。

前みたいに機材の話をすることはなくなった。
ライブ終わりに飯へ行くこともなくなった。
その代わり、夜になると連絡が来るようになった。

『今日空いてる?』

最初は気にしていなかった。
自分で選んだことだったから。
文句を言う資格なんてないと思っていた。

それでも時々考えた。
俺が欲しかったのは、本当にこれだったんだろうかと。

ギターを教えてくれる先輩が好きだった。

何でもない話をして笑う時間が好きだった。

助けたかったのも本当だった。

だけど気付けば、その全部がなくなっていた。

結局、先輩がどうなったのか俺は知らない。
ただ、俺たちの関係は元には戻れなかった。
俺に分かるのはこれだけだ。

あの時、手を差し伸べたことが正しかったのかは今でも分からない。

気付いていたのに何もしない方が良かったのか。

それも分からない。
答えはずっと出ないままだ。

***

不意に視線を上げる。
リビングのソファで、マコトが寝転がりながらスマホをいじっていた。

俺に気付くと、小さく手を振る。
何でもない仕草だった。
それなのに胸の奥がざわつく。

最近こういうことが増えた。

ライブが終わる。
目が合う。
部屋へ戻る。
当たり前みたいに隣にいる。

最初はライブの熱だと、せいぜい一時的なものだと思っていた。

だけど、もう違う。
マコトと同じ夜を過ごす日が増えた。

それが少しずつ日常にも侵食していることも、薄々気づいていた。

最初はライブハウスだけだった。
ライブが終わった後の、高揚感の延長線。
そう思っていた。

だけど気付けば違った。

俺の部屋で。

マコトの部屋で。

リビングで。

キッチンで。

気付けば場所なんて関係なくなっていた。

少しずつ、本当に少しずつ。
日常とそうじゃないものの境界線が溶けていく。

それでも俺は止めなかった。

止められなかった。

このままではいけない。
そんなことは、ずっと前から分かっていた。

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